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2016年4月1日

第1回 高萩 宏〈東京芸術劇場副館長〉

演劇人インタビュー、記念すべき第1回は 東京芸術劇場副館長 高萩 宏さん。

高校時代、そして学生劇団からプロとしての活動に至るまで。そして演劇職業化の可能性から、日本演劇界のいまとこれからの展望までを幅広く聞いた。2時間半にも及んだロングインタビュー。その中身と、演劇への熱意を余すことなくお届けしたい。

高萩 宏(たかはぎ ひろし) 

東京芸術劇場副館長。1976年、東大演劇研究会から出発し、日本演劇界に革命と熱狂を巻き起こした夢の遊眠社の制作として手腕を発揮。 その後東京グローブ座、世田谷パブリックシアターを経て、2008年には東京芸術劇場に副館長として就任。日本の首都・東京の公共劇場としての役割を果たすべく、日々奔走している。
著書に『僕と演劇と夢の遊眠社』(日本経済新聞出版社、2009年)がある。

演劇活動の原点は文化祭

―高萩さんは高校入学後、演劇部に入って活動されていたそうですが、演劇に興味を持つようになったきっかけとは。

小学校の学芸会ですかね。友達と人形劇をやったりするのがすごく好きでした。中学校では演劇部がなかったんだけど、文化祭で『ベニスの商人』を演出したりしましたね。とにかく中学校でも高校でも文化祭でいろいろなことをやるのが好きでした。高校では演劇部に入って活動をしていました。バスケ部と兼部しながらですけどね。

―演劇部ではどのように活動をしていましたか。

自分で演じるだけでなく、本を書いたりしていましたね。人数も少なかったし、男子ばっかりで出来る戯曲というのも少なかった。高2のときには『ロミオとジュリエット』を翻案したオリジナル作品をやりました。いま青年劇場の社長をやっている福島明夫くんと二人で演じました。戯曲も二人で書きましたね。両方ロミオになったりジュリエットになったりする話でした。

―高校時代観劇に行く習慣はありましたか。

その時はまだぴあもないころで、チラシを頼りにして芝居に行っていましたね。在学中は、清水邦夫さんの作品、別役実さんの作品などを、卒業後は蜷川さんの作品はずっと観ていました。「ぼくらが非情の大河をくだる時(1972年)」から観ていると思います。

劇研から遊眠社へ ~プロへの道~

―高校卒業後、高萩さんは東京大学演劇研究会で活動を始められる。

実は1度早稲田大学に入学しているんです。一浪して。だけど法学部だったので合わないなあと思って次の年に東大の文学部を受け直しました。合わなかったというより東大の演劇研究会に入るために二浪したようなものですかね(笑) 僕の同期たちが演劇研究会を立ち上げて待っていてくれたので。大学1年生の時は役者をやっていました。清水邦夫さんの『真情あふるる軽薄さ』で「中年男」という主役の一人を演じましたね。

―その後、野田秀樹さんが合流して遊眠社の原型が出来上がっていった。

僕が大学2年のとき(1975年4月)に野田さんが東大に入ってきました。最初は入るかどうか迷っていたみたいですけど、「新たに劇団を作るより、いまある組織を利用して作品を作ったほうが余計なエネルギーがいらない」と説得したら入ってくれました。それでその夏頃に『白馬童子』という野田さんが書いた本で公演をしたのが始まりですね。このときもう一人、阿川大樹(当時は小川大樹)という人が本を書いてきていたんだけど、多数決で『白馬童子』に決まりました。秋の駒場祭ではまた、野田さんが書いた『一本丸太助―惚れっぽいのは御免だぜ』という公演を行ったりして、次の年の1976年4月、夢の遊眠社の結成に至りました。

―演劇研究会から独立して夢の遊眠社を結成した理由はなんですか。

演劇研究会で3本目の公演を打とうとした頃に、当時つかこうへいさんがよく公演をしていた青山のVAN99ホール(注・1978年に閉館)で学生劇団の募集があり、それに参加することになって、「東大演劇研究会」ではプロらしくないから「おもしろくてためになる夢の遊眠社」として活動していくことにしました。この「おもしろくてためになる」は阿川くんの命名ですね。

―学生演劇が盛り上がっているなか、他の学生劇団との交流はありましたか。

当時劇団同士は生き残りを懸けていたから仲は悪かったです(笑) 観に行ったりはしていましたけど。僕はこのうちの全部の劇団は残らないと思ってましたから、いい役者さんは生き残る劇団が引き抜くべきだと思っていました。劇団綺畸の如月小春さんには夢の遊眠社に主役で出てもらいましたし、第三舞台の岩谷真哉さんも引き抜こうとしましたね。急にお亡くなりになって結局それは叶いませんでしたけど。

―多くの劇団がプロへの道をあきらめていく中で、高萩さん自身がプロになると決心を固めたのはいつ頃ですか。

まず遊眠社結成の頃にはプロになる気は十分でしたね。でもいま考えると恐ろしいですね(笑) でもそのあといろいろ考えて、卒業の頃には無理だと思いました。とても職業にはなりそうになかった。それでいったん会社に就職しました。でも会社に就職していっぱい芝居を観るようになって、やっぱり演劇は面白いなあって。それで遊眠社に戻ってプロになろうと思い直しました。

二十歳の可能性ー活かすか封じるか

―高萩さんと演劇研究会時代から共に活動していて、いまも演劇に携わっている方は。

野田さん、野田地図の演出補とかやっている高都幸男さん、それから野田地図の小道具を担当している酒井千春さん。酒井さんは「青春を野田秀樹に捧げた」って言われていますね(笑) この4人くらいだと思います。野田さんを普通の職業に就かせないで演劇界に残しただけでも周りとしては正しかったですよね。

―多くの仲間が演劇から離れてしまった理由は。

いまなら演劇を仕事にしますと言ってもそこまで変な感じはしないですよね。でも我々の学生時代はそういうことが非常に言いづらかった。演劇だけの収入で暮らしていくなんて想像が出来なかった。我々の世代で残っている人なんかも、優秀だから残ったというよりたまたま残った人の中でラッキーだった人が生き抜いたって感じがすごくしています。たとえて言うなら四段ロケットかな。一段が学生劇団時代にやめた人。二段が学生劇団の枠を超えたころにやめた人。三段はプロに近いけど職業とは言えない段階でやめた人。どんどん切り離されていって、たまたま四段目まで残った人がプロになっていると言える気がしますね。

―才能があっても環境が悪くてやめていく方も多くいた。

そうですね。役者でも演出でも制作でも、いまに比べてもっといろんな才能の人がいたような気がします。20歳前後の可能性っていうのはいろいろあると思います。阿川くんなんかいまは作家やっていますが就職組でしたしね。可能性を活かした人間と封じた人間でそのあとの人生はかなり変わってくるでしょうね。職業としてこういう仕事をやるようになって、なるだけ多様な可能性のある人間が活かせるような演劇界になれればいいと思います。

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